以前Culture CruiseのDMに「一記事しかバズらなかったですね。一発屋ですか?」というメッセージが届いたことがある。
なぜ終わったことにされたのだろうか。しかもどの記事のことを指しているのかが分からない。
SNSでシェアしていただける記事と、検索でヒットする記事というのは実はかなり違うし、自分にとっては、たとえいいねが一つしかつかなかったとしても、何千いいね押してもらえた記事と同じくらい大切だからだ。
一つも押してもらえなければ自分で押せばいい。最初の読者は常に私なのだから。これで何千いいねと同じ価値になる。
読んでもらえなかった原因はすべて自分にあると思っているが、記事が広まらなかったのは、タイミングが合わなかったか、フォロワーさんとは属性が違っただけ。そう思うことにしている。
取り上げたテーマに魅力の差はないと思っているから。
「記事書きました!」と投稿して、読んでもらえるだけで一つ目の奇跡。読んだ後もいいねを押さずに立ち去るのが普通なので、押してもらえた数だけ次の奇跡が訪れる。リツイートなんて別次元の話だし、引用リツイートは来世の話。
100人に読まれても5分後には忘れられてしまうような記事は、書いていても面白くない。
1人でもいいから、何ヶ月経っても「あの記事よかったな」とまた読みに戻ってきていただけることの方が、自分にとってはるかに重要なことだ。
だから執筆するときは、誰か1人が読んでくれている姿を思い描いて書く。
例えばサカナクションやDISH//の記事のように、時々特定の友人に向けて書いているのは、そうした習慣からひらめいたことだ。
そういう記事を増やしていくことで、自分にしか書けない執筆スタイルを生み、記事が作品になっていくのだと。骨の折れる作業かもしれないけれど、私はそう信じている。
「一発屋」と自分が呼ばれる日が来るとは思っていなかった。歌手とか芸人の話くらいだと思っていたが、Webサイトでも通用するものなのか。
その人は、少なくとも一発は認めてくれたということだろうか。一つでも人に届けることができたのなら、何もしていなかった過去の自分からすれば嬉しい変化だと言える。
実際、その一発に気持ちを込めて書いているわけだから、もしかすると、メッセージをくれた人の言葉には、私が望んでいた真意が潜んでいたのかもしれない。
本人が生き続けるかぎり、さらに言えば、創作は死後に評価される可能性だって大いにある。一発屋とは誰に対しても、永遠に向けることのできない言葉なのだ。
100繰り出した中の1つが、ようやく誰かの琴線に触れたのかもしれない。だとしたら、その人はものすごく努力家なはずだ。
「あの曲で売れた人」「あの芸でブレイクした人」長い人生のほんの一幕だけを切り取って、そこに閉じ込めてしまうなんて、少なくとも他人がやっていいはずがない。
何かを諦めてしまった人が、自分を慰めるためにこの言葉をつくったのかもしれない。誰かに向けてではなく、自分に宛てた言葉かもしれない。
そう思うと少し切ない。私は絶対に、この言葉が出てこない辞書をつくっていこうと、そんなところにまで考えが及んだ。
何もなかったところに言葉を置いていく作業が、今は楽しい。
文/長谷川 チエ
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