【連載小説】音を書く(7)

連載小説「音を書く」第十三章・第十四章のページです。

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第十三章 「静かなる旋律」

 祐希はいつも、僕の文章を読んで僕を理解しようとしてくれる。それなのに、僕は画力がないからと、祐希のことを理解しようとしなかった。それは不可能だと思っていたから。

 でも、この日奏さんのステージを観ていて、自分が愛する領域にしかとどまろうとしない自分のことが嫌でたまらなくなった。好きなものだけを集めて、分かった気になって安心していた。

 奏さんの曲の中でもひときわシンプルな「静かなる旋律」が流れ始めた時、僕は自分が持っていたヘッドフォンを装着して、ノイズキャンセリングのスイッチを入れた。

周囲の人たちは不可解な目で見ていたが、そんなことを気にしていたら、愛する領域からは出られない。僕には分かり合いたい人がいる。

 この大音量の中で、完全に音を遮断することはできないが、直前まで聴こえていた音の大半が、ずいぶんと制御され、ある程度の静寂が保たれた。

 星川奏の世界は、音がなくてもこんなに美しく胸に迫るのか。彼はただ音をつなぎ、歌うだけではなかったのだ。新たな時間や価値観、物語を創出している。彼自身もまた、透明な深海の住人だったのだ。

足元で受けた音の波は、体内に留まらず放出されることもあれば、鼓動と重なって全身を駆け巡ることもある。すべて、受け手の感じ方次第だ。

 祐希はその波を、丁寧に丁寧に受け取っていたのだろう。この空間を身体いっぱいに感じることが、祐希にとっての音楽体験だったのだ。

「君には分からない」だと? 分かっていないのは誰だ。僕はなんて身勝手な人間なのだろう。祐希だけが感じることのできる世界が、こんなに深く優しく清らかに存在していたというのに、そこに暗い色を落としてしまったのは僕だ。

 せめてこの先は、自分の中にある限りのきれいな色と言葉で、その暗い色を輝かせたい。そのために、自分の中のきれいな色を増やして、言葉を磨いていきたい。

 心の中に仕舞いきれなかった感情は大粒の涙となり、身体の外に溢れ出してくる。僕は瞬きをする度、鮮やかに祐希を思い出し、それが全部笑顔だったから、会いたい気持ちはとめどなく零れ落ちていった。

 音楽は人と人をつなぐ。歌う人と聴く人、感じる人。複雑なコード進行の奥に、信じられないほど飾り気のない透明で澄み切った真実が潜んでいた。

 真実はいつもシンプルだ。僕にとっての明日は、書かなければやって来ない。家に帰ったら、とにかく書いてみよう。歌う人と、感じる人をつなぐ物語を。

 奏さんは次の物語を観客に託すように、ステージを後にした。人と人が結びついたら、新たな時間が生まれるんだ。

 しばらく動けずに、座席にぽつんと座ったままで、出口に向かう人たちを見送った。真実に出会った時、人は途方もなく涙に暮れる。

第十四章 伝える

 僕は描く人に憧れている。僕はどんなに頑張っても書くことしかできないから。

 12月の空気は相変わらず冷たい。あんなに素晴らしく鳴り響いてた奏さんの音楽も、外界には伝わっていなかったようだ。でも、空気はなんだかまろやかになっている気さえした。

 僕の手は、迷いもなくポケットの中のスマートフォンに伸びた。

 ここで感じたことを書き出したら止まらなくなってしまったが、すぐに既読をつけてくれた相手は、お花畑だなんて一言も言わずに聞いてくれた。一緒に喜んでくれた。

 もしも逆の立場になった時、祐希が何かに夢中になって、高揚した気持ちを抑えられずに伝えてきたら、僕はもっともっと大きな心で受け止めようと一人誓った。

「望の話聞いてたら少し描けた。今画像送ったよ」

「え? 今の間に描いたの?」僕が送信した文章とほぼ同時に、トーク画面に一枚の画像が貼付された。

 明らかに僕と思しき人物が笑顔で立っているイラストだ。僕はこんなにまつげが長かったのだろうか。自分の横顔のことは分からない。

 その視線の先にはスラっとした男性が、少し腰を落としてピアノを弾いている。祐希の目に奏さんはこんな風に映っているのか。ふわりと空気を纏っていて、アンニュイでかっこいい。

 柔らかなタッチで特徴を捉えていて、相変わらず上手くて優しい。ピアノからはキラキラと光る音符たちが、瞬く星のように放たれている。

 この場所にいなかったのに、僕が発した言葉だけを頼りに、こんなに夢みたいな空間を描けるなんて。自分はどんなに頑張ったって平坦な文字の羅列しか書けないのに、絵を描く人の心はやっぱりすごい。

 照れ隠しに「何だよ、これ」と言いかけてやめた。

「祐希、ほんとにすごいよ! 感動した。ありがとう、僕の言葉を頼りに描いてくれて。それだけで救われる気がするよ」

 思ったことを言葉にしても、相手には一割しか届かないそうだ。だから思っている以上に、相手には大げさに伝えるくらいでちょうどよい。これは大学で心理学を専攻して、最初に知ったことだった。

 それでも。

「望の描写が的確だったからだよ。文章書く人って、目で見たものから逃げずにちゃんと言葉で捉えるの、すごいと思う。文字で伝えること、望は諦めないもんね」

 それでも、人は相手に気持ちを伝えようとする。たとえ一割でも、何も届かないよりはずっといい。明日の景色はほんの少し変わっているはずだ。

 祐希はそれを分かっているような届け方をする。あの時、教室で拍手をくれた頃からずっとそうだ。

 踏切で立ち止まり、もう一度イラストを眺めた。音符と思われたうちのいくつかは、よく見ると葉っぱのような形をしている。いや、これは枯れ葉だ。あちこち虫に食われて、穴が開いて、しわしわだ。でも命のきらめきがある。あの時のことを、もう十年も話していなかったのに、覚えていてくれたんだ。

 今描いたって言ってたけど、この枯れ葉だけは描写がしっかりしている。もしかしたら、僕が伝える前から描いていたのかもしれない。

 眼前を走る電車の青いラインが、滲んでいく僕の視界に充満して海のように広がった。頼むから、もっと僕に冷たくしてくれ。

「感想を聞かせて」と言ったのは、「描かせてほしい」という意味だったのかもしれない。祐希の絵にはいつも光が満ちていて美しい。でも無限に満たされているわけじゃない。何かをヒントに、描き始めるんだ。

 今度は僕が書く番だ。この絵を頼りに、まずは今日のことを記そう。書き始めるから物語は生まれる。書き始めなきゃ、何も生まれない。

 奏さんと祐希。歌う人と、描く人をつなごう。そしていつかは、僕も文章で音を描ける人になりたいんだ。

 この後のことを、僕は覚えていない。翌日、僕は皿を洗うことができなかった。先延ばし検定一級のなせる技だ。

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【連載小説】音を書く(1)

ABOUTこの記事のライター

山口県生まれ、東京都育ち。2016年、別業種からフリーライターとして独立。2017年にCulture Cruiseメディアを立ち上げ、『Culture Cruise』を運営開始。現在は東京と神奈川を拠点としている。カルチャーについて執筆するほか、楽曲のライナーノーツ制作、別名義で小説や行動経済学についての書籍も出版。趣味はレコード鑑賞。愛するのはありとあらゆるカルチャーのすべて!!